2011年04月17日
久しぶりの投稿ですが
さて、久しぶり の投稿ですが、私はご存知のように千葉県に住んでるので、余震はモロに来る地域にいます。毎日毎日緊急地震速報。今朝もでかいのがありましたし・・。
被災した方以上に、その心情を共有するのは難しいかもしれません。でも私からは、「頑張らないで、無事で過ごして」と願うばかりです。
ご家族や友人を失い、財産を失い、失望、絶望をかいくぐり、これ以上頑張るというのは、はっきりいって無理です。
苦難はこれからもっと長いはずだからです。
災害が起こるたび、人はその運命に翻弄され、時としてそれを恨めしく思うことでしょう。
「なぜ私なの?」と。
救いはまるで無いかのようです。
無慈悲。そう思えるでしょう。
命を育むとき。それは人は感謝の気持ちでいっぱいです。
でも自然災害で命を落とすことの不条理は、人は納得できないものなのです。
でも、貴方がもし天気というものがこの世に無かったなら、きっと貴方もこの世には生まれなかったかもしれない。そういうと、なんとなく理解してくれるかもしれません。
雨が降らなければ、実りは無いのは当たり前です。
多くの科学者、地質学者、研究者が地球の営みについて学んできたことは、たった一つ。
地球は生きている。
それだった。
生きている地球の上に私たちは生きています。
それは私たち一人ひとり平等で、誰も逃れることは出来ません。
それはたとえ科学や知識の集約をもってしても、自然の前には人は無力だと言うことを、今回の震災は示しています。
しかしこれは、神様がいたとして、その方が人を不幸に陥れるための行いではありません。
「祈りはそれを行うまで、人はその行いを軽く思うものだ。それは無力で役に立つはずもないと。たが貴方がそれを行わない限り、幸福はやってはこない。祈りは行いそのものではない。行動であり思いやりなのだ。貴方に降りかかる不幸を、遠くの友人が同じ思いをしているんだと、きっとそうかもしれないと、貴方が思ったとき、すぐにやれる思いやりが”祈り”なのだ。それは様々な行いとなって、貴方の前に指し示されるだろう。昨日まで言い争いをしていた人たちに、心を開くきっかけになるかもしれない。
もっとも重要なのは、貴方のそばに、一番近くに”誰がいるんだろう”そう創造できることである。
「誰も愛する人がいないのなら、貴方は最も近くにいる人をまず初めに愛しなさい。どんな人でも貴方は愛せるはずだからです。」
それは既に、被災した人たちの周りを、どれほどの国の人たちが支援しているかでもわかります。
心の平和を私は信じています。その地平は遠いかもしれません。
「遠くで命が失われている。でも貴方は心を開けば、その命を救うことさえ出来る。何故なら貴方は人だから。貴方が悲しいと感じることは、ほかの誰でも思いは同じです。貴方も私も共に一つの同じ世界で生まれたのです。そこは、決して天国ではありませんが、だれもが同じ思いを分かつことが出来る希有の世界なのです。貴方が絶望するということは、私も絶望するということ。」
母がクリスチャンなので、まあこういうのもなんですが、
「苦しいときほど、私の名を呼びなさい。私と語るのは言葉は要りません。たった一つの祈りだけです。助けてください。お願いです。心の底から呼びなさい。魂の言葉で。貴方が私を信じるより前に呼びかけることを行う時、貴方は苦難の中で生まれても、まだ救いがある。それは貴方が心を開いて人に呼びかけたときに始めて生まれるのです。貴方は弱い。でも貴方の隣人も見えないだけでまったく同じです。誰にでも懐疑の心と真実への忠誠があることからもわかります。」
懐疑と恨みと悲しみからでは、人は救われません。
瓦礫の中からきっといつか美しい花が咲くはず。それは雑草かもしれないけど、その花を被災した方が見るとき、「そうだよ。僕も自然のひとつなんだ」って花の言葉が聞こえるかもしれません。
太平洋戦争の最後に原爆に被災した広島では、「数十年草木は育たない」といわれたそうですが、原爆投下後、そんなに時期を待たずに植物の花が春に咲いたそうです。
「こんな小さい花さえ、同じことを毎年できるんだね。僕らもきっとできるね。」それは被爆者の言葉。
人の心はどこかで美しいものがあるんです。だから自然災害でも負けないんです。泣かないで。
被災した方以上に、その心情を共有するのは難しいかもしれません。でも私からは、「頑張らないで、無事で過ごして」と願うばかりです。
ご家族や友人を失い、財産を失い、失望、絶望をかいくぐり、これ以上頑張るというのは、はっきりいって無理です。
苦難はこれからもっと長いはずだからです。
災害が起こるたび、人はその運命に翻弄され、時としてそれを恨めしく思うことでしょう。
「なぜ私なの?」と。
救いはまるで無いかのようです。
無慈悲。そう思えるでしょう。
命を育むとき。それは人は感謝の気持ちでいっぱいです。
でも自然災害で命を落とすことの不条理は、人は納得できないものなのです。
でも、貴方がもし天気というものがこの世に無かったなら、きっと貴方もこの世には生まれなかったかもしれない。そういうと、なんとなく理解してくれるかもしれません。
雨が降らなければ、実りは無いのは当たり前です。
多くの科学者、地質学者、研究者が地球の営みについて学んできたことは、たった一つ。
地球は生きている。
それだった。
生きている地球の上に私たちは生きています。
それは私たち一人ひとり平等で、誰も逃れることは出来ません。
それはたとえ科学や知識の集約をもってしても、自然の前には人は無力だと言うことを、今回の震災は示しています。
しかしこれは、神様がいたとして、その方が人を不幸に陥れるための行いではありません。
「祈りはそれを行うまで、人はその行いを軽く思うものだ。それは無力で役に立つはずもないと。たが貴方がそれを行わない限り、幸福はやってはこない。祈りは行いそのものではない。行動であり思いやりなのだ。貴方に降りかかる不幸を、遠くの友人が同じ思いをしているんだと、きっとそうかもしれないと、貴方が思ったとき、すぐにやれる思いやりが”祈り”なのだ。それは様々な行いとなって、貴方の前に指し示されるだろう。昨日まで言い争いをしていた人たちに、心を開くきっかけになるかもしれない。
もっとも重要なのは、貴方のそばに、一番近くに”誰がいるんだろう”そう創造できることである。
「誰も愛する人がいないのなら、貴方は最も近くにいる人をまず初めに愛しなさい。どんな人でも貴方は愛せるはずだからです。」
それは既に、被災した人たちの周りを、どれほどの国の人たちが支援しているかでもわかります。
心の平和を私は信じています。その地平は遠いかもしれません。
「遠くで命が失われている。でも貴方は心を開けば、その命を救うことさえ出来る。何故なら貴方は人だから。貴方が悲しいと感じることは、ほかの誰でも思いは同じです。貴方も私も共に一つの同じ世界で生まれたのです。そこは、決して天国ではありませんが、だれもが同じ思いを分かつことが出来る希有の世界なのです。貴方が絶望するということは、私も絶望するということ。」
母がクリスチャンなので、まあこういうのもなんですが、
「苦しいときほど、私の名を呼びなさい。私と語るのは言葉は要りません。たった一つの祈りだけです。助けてください。お願いです。心の底から呼びなさい。魂の言葉で。貴方が私を信じるより前に呼びかけることを行う時、貴方は苦難の中で生まれても、まだ救いがある。それは貴方が心を開いて人に呼びかけたときに始めて生まれるのです。貴方は弱い。でも貴方の隣人も見えないだけでまったく同じです。誰にでも懐疑の心と真実への忠誠があることからもわかります。」
懐疑と恨みと悲しみからでは、人は救われません。
瓦礫の中からきっといつか美しい花が咲くはず。それは雑草かもしれないけど、その花を被災した方が見るとき、「そうだよ。僕も自然のひとつなんだ」って花の言葉が聞こえるかもしれません。
太平洋戦争の最後に原爆に被災した広島では、「数十年草木は育たない」といわれたそうですが、原爆投下後、そんなに時期を待たずに植物の花が春に咲いたそうです。
「こんな小さい花さえ、同じことを毎年できるんだね。僕らもきっとできるね。」それは被爆者の言葉。
人の心はどこかで美しいものがあるんです。だから自然災害でも負けないんです。泣かないで。